さとブログ

アラサー独身男。日々の学び。毎日更新。

映画感想『月の満ち欠け』。大切な誰かを亡くしたことがある誰かへ。前世の存在は生きる希望である。

あなたは前世を信じますか?

 

その人の人生観によってこの回答は大きく異なります。

もしもあなたが私と同じように

前世の存在を信じるのなら

また悔やまれない不慮の事故や非業の死を遂げた誰かの大切ならば

この映画はあなたの心に響く一作になります。

 

その映画は12月2日に公開された

佐藤正午さん原作の『月の満ち欠け』という作品です。

今日はこの作品の感想について話していきます。

 

映画の感想。前世の記憶をもって生まれてくる子どもと怨霊の違い

この映画は1990年代の話で、舞台は東京と青森。

主人公の小山内堅は大学進学を機に、地元である青森の八戸を出て

東京へ進学する。在学中に、同郷の出身者である梢と付き合いはじめ

そのままゴールイン。一女に恵まれ、名を瑠璃と名付ける。

紆余曲折はあれど、堅は仕事面では大プロジェクトを任され

プライベートでも妻と娘との関係性も良好で幸せいっぱいの毎日を過ごす。

そんな幸せの真っただ中で、妻と娘の二人を交通事故で亡くす。

失意の底に暮れる堅は仕事を辞め、病気の母親がいる故郷の青森へ帰る。

そこで彼は不思議な出会いの体験をする…

 

この映画のテーマというのは魂である。

人の魂は月の満ち欠けのように満ちては消え満ちていくものだと言う。

つまり、魂というのは過去から連綿と続いたものであるという考えである。

 

魂の生まれ変わりというのは昔から言われていて

よく芸能人が私は過去の英雄の魂の持ち主だというような発言をしては

理解ができない人の手によってあり得ないなどとかき消される。

 

でも本当に、魂の生まれ変わりは存在しないのだろうか。

 

映画の最中に出てきた言葉をもとにすると

もともと、人間は前世の記憶を持っている。

ただ満たされていない人だけがその前世の失意の念を強く思っていて

それを達成したいがために前世の記憶を忘れないままに持っている。

 

とある。

 

確かにこれは、そうかもしれない。

死んだ人間が化けて出るのは、前世に対する未練、怖い意味で言うと怨念ということになるが、これは前世で悔しい思いをしたからだ。

祖母が亡くなったとき、私の夢に彼女が出てくることはなかった。

ただ、私が住んでいる3階のベランダに

コンクリートしかない住宅街のベランダに

メスのクワガタが来た限りだった。

現世でやり残したことがなく、生き抜いた人間は夢には出てくることはないという。

これは成仏した証といえるそうだ。

 

そういう意味でいうと、魂というのは非常に強く、可能性がある。

連綿と続く魂のなかで、断片的に非常に悔いの残る経験があれば

それは後世へキャリーオーバーされる。

そして、生まれてきた子どもたちは前世の記憶を手掛かりに

その願いを果たそうと何かに挑戦したり、冒険したりするのだ。

 

では、恨みや怨恨といった内容ならどうなるのか?

かたき討ちをされることは、相手からすればただの無差別攻撃だ。

江戸の敵を長崎で打つようなもので、非常に筋違いなものともいえる。

そういったネガティブな要素に揺り動かされた魂は

非常に悔いが残っていたとしても次の生まれ変わりを認められずに

ずっと現世で怨霊としてあり続けるのかもしれない。

そう考えると非常に怖い。

怨恨は自分を永遠に助ける材料にはならないのだ。

 

人を恨まずに生きる努力をしなさい

といった瀬戸内寂聴の言葉は非常に身に染みる。

 

 

私の体験。魂の生まれ変わりを信じれば、もっと私たちは自然体でいられる。

映画の中で、娘の瑠璃は前世の記憶を意識するようになる。

瑠璃は前世で非業の死を遂げていて、想い人の男性と添い遂げられなかったことの

無念さを抱いたまま、いずれ願いを果たそうと心に決めつつも

一人の女性として成長していく。

そして、娘の瑠璃は男性に会おうとした過程で交通事故に遭い

またしても無念のまま亡くなってしまう。

 

作品中に出てきた言葉に

前世があると思えば、それは希望だ。

という表現が出てくる。

 

これは前世を信じている人や

誰かを亡くした失意の底にいる人にとって最高の慰めだ。

 

誰もが、誰かの生まれ変わりであって

自分が育てた子どもも誰かの魂の生まれ変わりであるとするのなら

今世の私たちの人生というのは、連綿と続く魂の1ページに過ぎない。

仮に非業の死を遂げていても、立派に、懸命に生きたのなら

また生まれ変わるはずだから。

そして、彼ら彼女らの失意の念、達成できなかったことは

魂に刻まれていて、今世ではそれを問題解決するべく

一生懸命に生きるのだ。

 

 

実は、私は幼少期に弟をダウン症で亡くしている。

私自身、小学生の頃の話であって、記憶がやや定かではない。

きっと心にとってあまりに大きすぎる痛みだったんだと思う。

大人にとっても受け入れがたい息子娘の死を、小学生が受け入れられるはずがない。

だから自分から記憶に蓋をしたのだ。

 

彼は4年という人生で幕を閉じた。

けれども、一生懸命に日々を生きた。

彼は亡くなってしまったけれど、その純粋なひたむきさを買われて

再度、誰かの体を借りて、自分の魂の1ページをもう一度

紡ぎあげていっているのかもしれない。

 

そう思えると、心の中に沈殿していた暗い気持ちが晴れて

胸がすくような思いだ。

どこかで彼が生きているのなら…

 

と彼の姿はもう見えなくても

そう思って存在を否定しないでいられる。

これは本当に希望である。

無理に悲しみに蓋をすることは失意のどん底にあるときには

必要なのかもしれない。

けれど、それでずっといることは寂しい。

彼が生きた人生まで無きものにしているようで心が痛む。

 

恒久的に癒えない痛みを緩和してくれるのは

やはり前世という概念であって

私たちは前世を信じることによって

無理矢理に感情に蓋をすることがなく自然に涙を流せる。

 

自然体でいられるのは、魂の生まれ変わりを信じられるからだ。

 

 

映画を見ていたら自然と涙が流れた。

 

死別して別れてしまったことは悲しいけれど

またどこか誰かとして生きているかもしれないと思えること。

 

自分もまた誰かの生まれ変わりで、ただ魂の一片にすぎないんだ。

と考えられたなら

私たちは自然体で苦しみを耐えることはないし

もっと楽に生きられるはずだ。

 

 

そしたらまた。

 

☆魂の1ページ、美しく生涯を生きましょうよ。

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